よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)3

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「敵方は善光寺に五千ほどの軍勢を残してあると聞きましたが、さらにその後方へ春日山城からの援軍を伏せておき、われらが妻女山の麓に布陣した途端に、善光寺の軍勢と合流してわれらの背後に回るような策でありましょうか。そうなれば、一気に挟撃の態勢をとられ、逆にわれらの退路が危うくなりまする」
「うむ、なるほど。あり得ぬ策でもないな……。御屋形様、ひとつお聞きしてもよろしいか?」
 飯富虎昌がおもむろに訊く。
「何であるか、兵部?」
「こたびの布陣は、海津城の救援に向かうためのものにござりまするか? それとも、真っ直ぐに敵の喉元を見据えて相対することが目的にござりまするか? それだけは、お聞かせ願えませぬか」
「この状況に至っては、海津城の救援に向かうための布陣にさしたる意味がなかろう」
 信玄はきっぱりと言い切る。
「こたびの布陣は、妻女山に居座る景虎と対決することだけを見据えて、決めればよかろう。ならば室賀峠を越え、二日をかけてでも総軍で川中島へと入るのがよいかもしれぬ。なにゆえかと問われたならば、いま妻女山にいる者どもは、余が守護する所領に土足で上がり込んだ不届者であるからだ。さような奴ばらの顔色を窺(うかが)う気はさらさらない。われらは堂々と行軍し、堂々と敵を見据えて布陣いたせばよい。おそらく、海津城の将兵たちも余と同じ気持ちでいてくれるに違いあるまい」
 その決意に、皆一様に安堵(あんど)したような表情を見せる。
「そして、ここ、上田原にいるわれらが、決して忘れてはならぬことがある。越後勢の陣中には、まだ村上義清がおるということだ。あの者が生きている以上、この上田原の一戦で死んでいった同朋たちの雪辱は果たされておらぬ。板垣や甘利をはじめとし、武田の礎になってくれた英傑たちの御魂(みたま)を鎮めるためにも、あの者だけは許しておけぬ。皆もそれを肝に銘じてほしい」
 信玄は重々しい声で言った。
「……御屋形様、よくぞ仰せになってくださりました」
 飯富虎昌が膝の上で両拳を握りしめ、何度も頷く。
 総大将の覚悟が伝わり、一同は俯き加減でそれぞれの思いを嚙みしめていた。
 今回の出陣には、甘利虎泰の忘れ形見、嫡男の甘利昌忠も同行している。この漢は幼少の頃から信玄の奥近習を務め、今では立派な旗本衆に成長していた。
「さて、心構えはともあれ、敵も何かしら一計をもってわれらを待ち受けているであろう。景虎の動きから見ても、こたびの戦いは一筋縄ではいかぬものと思っている。こちらの布陣も周到に策を練って臨まねばならぬ」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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