第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)3
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
確かに信玄が言った通り、すでに信濃の大半は武田家が統治しており、すでに善光寺平も実質的な支配下にあった。
「兄上、とにかく出陣の支度を急ぎまする。すぐに、軍(いくさ)評定を」
信繁は兄を宥(なだ)めるように言った。
「……そなたの言う通りだ。今は寸刻でも惜しい」
信玄も怒りを抑えて頷く。
「義信、そなたも評定の手配を手伝うてくれ」
「はい、叔父上」
「では、兄上。ひとまず、お暇(いとま)いたしまする」
信繁は甥の義信を伴って退室した。
「叔父上、こたびの戦は相当に難儀なものとなるのでありましょうか?」
廊下を歩きながら義信が訊く。
「そなたはなにゆえ、そう思った?」
信繁があえて聞き返す。
「……父上に先鋒として一足先に川中島へ行きたいと具申しましたところ、逸(はや)るなと諫(いさ)められました。総軍で動かねばならぬ、と」
「兄上がさように申されたならば、そのような戦になるのであろうな」
信繁は薄く笑いながら答えた。
「父上はなにゆえ、難儀な戦になるとお考えになったのでありましょうや。叔父上は、その答えがおわかりになっているのでありましょう?」
「戦勘であろうな」
「いくさ、かん?」
「戦場に向かう前の勝負勘というか、匂いのようなものであろうな。こたびは相当に焦臭(きなくさ)い、というような」
「……はぁ」
半分しか納得していないように、義信が小首を傾げる。
「兄上は軍略に優れておられるが、それ以上に理屈だけでは割り切れぬものを一瞬で摑(つか)む能力に長けておられる。つまり、それが戦勘というものだ。こたびはその嗅覚が騒いだのであろうな」
「なるほど。そのきっかけが越後勢の布陣であったと」
「さようだ。景虎が妻女山に布陣したことで、この戦はすでに味方の城を救援すればよい戦いではなくなったということであろうな。実際、われらは完全に先手を取られ、海津城の命運は景虎の胸先三寸によって、いかようにも転ぶ状況になっておる。つまり、冷酷な言い方をすれば、われらがいかように足搔(あが)こうとも、海津城のことはなるようにしかならぬ」
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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