よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)3

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 信玄が祝箸(いわいばし)を手に取って打鮑の一片を食すと、神人が御神酒(おみき)の入った長柄(ながえ)の片口(かたくち)を差し出す。大紋直垂(だいもんひたたれ)の袖を払い、うやうやしく両手で三重盃のひとつを取り、深く一礼した。
 そこへ長柄所役(しょやく)の神人が再び御神酒を注ぐ。
 その後は同じ要領で、勝栗を食して三注一献、結昆布を食して三注一献となり、三つの盃すべてを飲み干した。
 そして、出陣の儀の最後は、御旗と楯無への拝礼(はいらい)である。
「御旗、楯無も、御照覧あれ」
 信玄は天津神(あまつかみ)と国津神(くにつかみ)に見立てた先祖伝来の宝物に八度拝(はちどはい)八開手(やひらて)を捧げた。
 一方、家臣たちも大わらわで支度を終え、出陣の時を待っていた。
 躑躅ヶ崎館からは、ひっきりなしに早馬が出され、各城に向けて行軍の予定が伝えられる。
 上杉政虎自らが越後勢を率いてきたからには、当然のことながら大戦(おおいくさ)となることをも想定していた。
 本隊が川中島へ向かう途上で散在する将と軍勢を合流させ、総力戦に耐えうる陣容を整えるつもりだった。
 信玄は全軍が集結する場所を、信濃の上田と定めた。
 総大将が御霊舎(みたまや)から出ると、まるで出陣する武田勢を祝福しているような晴天だった。野分晴れの下に風林火山の旗幟(きし)がはためいている。
 信玄は愛駒の黒雲(こくうん)に跨(また)がり、日輪の入った鉄の軍扇を握りしめ、眩(まぶ)しそうに空を仰ぐ。
 その前では、一万五千余の軍勢が下知を待っている。弟の信繁は一日半ほどのわずかな時間で入念な手配を行い、本隊をまとめていた。
 青空から目を離し、信玄は具足に身を固めた弟を見る。
 先頭にいる信繁は満足げに微笑し、ゆっくりと頷いてみせた。
「いざ、出陣!」
 信玄は林立する孫子の幟旗に向かって軍扇を振る。
 先陣を担う信繁の軍勢が、北西に向かって逸見路(へみじ)を進み始めた。
 この逸見路は諏訪口筋とも呼ばれ、甲斐から諏訪の方面に至る重要な古道だった。
 沿道には甲府の民が立ち並び、武田勢の壮麗な進軍に手を振っている。おそらく、その中にも敵の間者(かんじゃ)が紛れ込んでいるはずだった。
 信玄はあえて勢いを抑え、威風堂々とした行軍をその者たちに見せつける。
 この出陣が永禄四年(一五六一)八月十八日午後のことだった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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