第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)3
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
それは次のような意味である。
『敵が必ず馳(は)せ参じる要地に出撃し、敵の思わぬ場所に急進し、千里を行軍しても疲れないのは、敵の間隙を縫って無人の地を行くからである。
攻撃すれば必ず奪取できるというのは、そもそも敵が守備していない地点を攻撃するからである。
守備すれば決まって堅固だというのは、そもそも敵が攻撃してこない地点を守っているからである。
こうして構えるゆえに、攻撃の巧みな者にかかると、敵はどこを守ればよいのか判断できなくなる。そして、守備の巧みな者にかかると、敵はどこを攻めればよいのか判断できなくなる。
その境地は、微妙なるかな。微妙は無形にまで到達する。
その境地は、神妙なるかな。神妙は無音にまで到達する。
だからこそ、敵の運命までを制する者となれるのである』
非常に難解ではあるが、孫子は虚実を制する極意をそのように説いていた。
「微妙は無形に至り、神妙は無音にまで至る。つまり、敵からは見えないゆえに敵の運命までを制することができる」
それが虚実の真髄だと述べているのである。
孫子の説く虚とは、備えがなく、隙だらけであること。
実とは、充分に準備を行い、付け入る隙がないこと。
当たり前のようだが、必勝の法というのは、実によって虚を伐(う)つ策だった。
しかし、その虚実でさえも見たままではなく、互いに二重三重に罠(わな)を仕掛け合い、まやかしを見せていると考えた方がよかった。
――おそらく、誰もが考えそうな妻女山の退路を塞ぐ布陣というのは、今回に限って下策なのかもしれぬな。川中島では、あの景虎と越後勢が思いもせぬ布陣が必要となるであろう。さて、こたびの無形無音の布陣とはいったい、いかなるものであろうか……。
夕餉(ゆうげ)を済ました後、床に入っても信玄の思案は止まらなかった。
翌日、笹尾城を出立し、武田勢の本隊は午(ひる)過ぎに諏訪の上原城へと到着した。
この城に入った途端、信玄はなぜか抜き去りがたい郷愁に囚(とら)われる。もちろん、様々な思いの詰まった城だが、こんな感覚に囚われるのは初めてだった。
諏訪を制してから郡代として上原城に入ったのは、信玄の傅役(もりやく)だった板垣(いたがき)信方(のぶかた)である。
――思えば、川中島における景虎との戦いの始まりも、元々の原因は村上義清との上田原(うえだはら)の一戦にあった。あの戦で、まだ未熟だった余の采配により、板垣をはじめとして、かけがえのない重臣たちを失ってしまった。おそらく、そのことが不意に蘇(よみがえ)り、またしても上田原を抜けて川中島へ赴くという一致が、抜き去りがたい郷愁を呼び覚ました原因なのであろう。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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