第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)3
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「琵琶の音?」
「はい、平家琵琶の音色と『鵺』の謡が麓まで流れてくると」
「ふっ……」
信玄は思わず苦笑をこぼす。
「景虎が山頂の陣から敵城を見下ろし、これ見よがしに酒宴を催しておるということか。どこまでも、酔狂な奴ばらよ。かかる乱世に、そこまで戦を弄べるのは、あ奴ぐらいのものかもしれぬな。まったく、どこまでも武田をなめくさるつもりか。されど、その報いがどのような形で己に返ってくるかを、こたびこそは思い知らせねばならぬ」
きっぱりと言い放った兄の横顔を、信繁はじっと見つめる。
「こたびは越後と雌雄を決する戦いをなさると?」
「こうなった以上、ただでは越後へ帰さぬ」
「景虎と越後勢を完膚なきまでに叩き潰す御覚悟にござりまするか?」
「いや、そこまで大仰な覚悟をせずとも、童(わらわ)から玩具を取り上げるように、景虎から大義名分とやらを奪ってやるだけでもこと足りる」
「なるほど、村上(むらかみ)義清(よしきよ)と高梨(たかなし)政頼(まさより)の北信濃勢を生かしておかねばよいということにござりまするか」
信繁は素早く兄の思惑を摑み取る。
「それも立派な策のひとつということだ」
信玄は不敵な笑みを浮かべ、雨の匂いを嗅ぐように大きく深呼吸する。
風雨のけたたましい音が響いてくる闇を見つめたまま、何かを思案するようにしばらく黙りこんだ。
それから、弟の方に向き直り、真剣な眼差しで問う。
「信繁、善光寺平の戦では、常に不利がわれら武田勢について廻る。それがなにゆえか、わかるか?」
「地の利、にござりまするか?」
「うむ。それもある。されど、それだけでは、答えに足りぬ。われらが不利となるのは、余と景虎の戦に対する心構えが違いすぎるからなのだ」
「戦に対する心構えが、有利不利までを生むと?」
「さよう。余はかように思うておる。戦とは、ただ相手に勝つためだけにするものではない。戦の先には、常に領国の豊かな政(まつりごと)を見据えておかなければならぬからだ。されど、景虎は最初から善光寺平を所領にする気がないゆえ、かように訳のわからぬ戦いを仕掛けても平気なのだ。おそらく、海津城を落としたとしても、そこに将兵を入れて守り抜く気などあるまい。されど、そのような姿勢であるがゆえ、決して信濃では余に勝てぬ。城を奪われたならば、いくら時がかかろうと奪い返せばよいからだ。されど、後先を考えぬ景虎は、目先の戦だけでならば、余よりも優位に立てる。そこが最も腹立たしいところだ」
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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