第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)3
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
しかし、唯一、この秘匿してある計略を使えない場合がある。
それは敵方が知らぬ間に背後の山道へと回った時だった。
そして、城の背後をとるためには、妻女山の一帯から連なる尾根を使うしかなかった。
――それが景虎の狙いだというのか……。
信玄は細かい経路まで確認しながら小さく唸(うな)る。
それを見た馬場信房が怪訝(けげん)な表情で訊く。
「御屋形様、いかがなされました?」
「信房、そなたは敵城ひとつを丸ごと人質としたならば、相手に何を要求するか?」
「え!?……あ、はぁ……」
「この地図をよく見てみよ。どうやら、景虎が妻女山へ登ったのは、ただの酔狂ではなさそうだ。それなりの狙いが透けて見えぬか」
信玄は妻女山周辺を指しながら、冷静な声色に戻っていた。
主君に促され、馬場信房は地図を見つめ、地勢の詳細を読み直す。
「……御屋形様は越後勢が赤坂山の獣道を下り、海津城に迫るかもしれぬとお考えにござりまするか?」
「足軽の軍勢ならば、赤坂山の獣道を通って妻女山から海津城に迫ることもできよう。されど、さように単純な策ではあるまい。もっと大局観を持って、全体を眺めてみよ」
「ま、まさか!?」
信房が眼を見開く。
「ま、まさか!?……景虎が戸神山の頂上へ軍勢を回り込ませ、地蔵峠の手前で海津城から退却するわが軍勢を待ち伏せするやもしれぬ、と……。御屋形様はそこまでお考えでありまするか?」
「もしも、妻女山に布陣するという策を採用するのならば、その軍略が含まれていなければおかしい」
信玄は地図を示しながら冷徹な口調で言葉を続ける。
「海津城の西側の山に一万三千もの軍勢を配したのならば、足軽隊を二つに分けて戸神山と赤坂山に向かわせる。その上で、善光寺に残した後詰を寺尾の渡しへ差し向け、同時に赤坂山から清野に降りた寄手で城の側面を攻め立てる。籠城が危ういとみた昌信は、狼煙山砦の方角に逃げようとするであろう。されど、戸神山の頂上を回り込んだ伏兵の足軽隊が、すでに地蔵峠の手前で待ち伏せしている。慌てて引き返しても、今度は景虎の本隊に追い回され、逃げ回る兵たちは撫で切りにされてしまう。四方からの挟撃をくらえば、海津の者が皆殺しになるは必定だ」
背筋も凍るような策略だった。
馬場信房と真田信綱が絶句しながら眼を見開いている。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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