第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)3
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
信玄は瞬時にいくつもの軍略を脳裡(のうり)に描き、それを組み合わせることができる。戦に際しては常にあらゆる可能性を探り、考え得る手立てをすべて絞り出してきた。
しかも用心深く、実利の取れそうにない戦法は徹底して排除する。
「戦の勝ちは、六分(ぶ)が最上」
常々、家臣たちにそう説いていた。
なぜならば、六分以上の勝ちを望めば、自軍にも相応の被害を覚悟せねばならず、そのような戦いを上策とは言わない。
四分六分、一分の有利で自軍の勝ちとなる軍略を見つけられれば、自軍の被害はほとんど最小限に抑えることができるはずである。
それこそが、信玄の描く完璧なる勝利であり、戦構えの神算というものだった。
そうした基本的な考え方からすれば、敵の殲滅(せんめつ)を狙う妻女山への布陣は、己ならば絶対に採用しない下策であしかない。
しかし、上杉政虎はぬけぬけとその下策を実行してみせたのである。
そこに相手の真意が読めそうで読めない不気味さを感じた。
「いま地図を見ただけでも、かような策はすぐに思いつく。景虎が考えられる軍略を、余が思いつかぬとは、向こうも思うてはおらぬであろう。この面妖な布陣が海津城殲滅の布石であるならば、城を攻める以前から城兵を人質に取ったも同然だ。景虎の匙(さじ)加減で昌信らの命はどうとでもなる。さて、信玄よ。うぬは海津城と城兵の命の代わりに何を差し出すか? それがこの布陣を通した景虎の投げかけではないのか。そして、先ほどの問いの意味であるのだ、信房」
信玄が眉をひそめる。
敵方の一手を深読みしすぎると疑心暗鬼にかられ、かえって相手の術中にはまることも多い。
しかし、今回ばかりは自分の懸念が当たっているような気がした。
実際に、政虎の布陣を詳細な地図に照らし合わせてみると、己が捻(ひね)りだした退却の秘策を潰されているような感があった。
「……されど、御屋形様。戸神山から地蔵峠へと回り込む山道は、海津城を縄張りした菅助(かんすけ)ですら地元の猟師たちに教えられるまで知らなかった隠道(かくれみち)にござりまする。それを越後の者が知っているとはとうてい思えませぬが」
馬場信房がやっと口を開く。
「誰か、そのことを景虎に吹き込んだ信濃の者がいるのやもしれぬ。あの者とて、無策で妻女山へ登るほど愚昧者(おろかもの)ではあるまい」
信玄は政虎を格下と見なしていたが、決して見くびっているわけではない。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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