よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)3

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「いったい、敵はいつまで動かぬつもりなのでありましょう」
「さてな。酔漢の考えることなどわからぬ。されど、向こうが動かぬのならば、こちらから動く道理もなかろう。肝を据えて、敵の出方を待つだけだ」
 この城将は不気味な敵の静観を真っ向から受け止めるつもりだった。
「……それにしても、息が詰まりまする」
 小幡光盛が本音を吐露する。
 昌信の思惑に反し、状況はまったく変化していなかった。
「御屋形様の本隊が到着するまでの辛抱だ。われらが毅然(きぜん)としていなければ、兵たちの士気にかかわる。無用な愚痴は禁物だ」
「……相すみませぬ」
「今に眼にものを見せてくれようぞ」
 香坂昌信が吐き捨てるように言った。
 その頃、信玄の本隊は諏訪へ向かっていた。
 昨日、甲府を出立した武田勢は韮崎(にらさき)の里を抜けて若神子(わかみこ)城を目指し、その先からは棒道へと入った。
 棒道とは、信玄が諏訪を攻略するために造った軍用路で、八ヶ岳の麓をほとんど直線で突っ切るように切り開いたことから名付けられている。幅広くまっすぐな道が造られ、進軍の速度を飛躍的に上げることができた。
 その途上で、突然、信玄の脳裡に孫子の一節がよぎる。
 兵法第六「虚実篇」の冒頭だった。
「一、
 孫子曰(いわ)く、凡(およ)そ先(さき)に戦地に処(お)りて敵を待つ者は佚(いっ)し、後(おく)れて戦地に処りて戦いに趨(おもむ)く者は労(ろう)す。
 故(ゆえ)に善(よ)く戦う者は、人を致(いた)して人に致されず。
 能(よ)く敵人(てきじん)をして自(みずか)ら至(いた)らしむるは、これを利すればなり。能く敵人をして至るを得ざらしむるは、これを害(がい)すればなり。
 故に敵、佚すれば能くこれを労し、飽(あ)けば能くこれを饑(う)えしめ、安(やす)ければよくこれを動(うご)かす」
 孫子はこの一節で、次のように説いていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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